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リンゴ2個とミカン3個、あわせて何個?

昔、「リンゴとミカンは足せません」と言って、ほぉーと感心するのが流行りました。しかし、感心するだけでは、物事の本質を理解していません。だから当時、この感心した人たちの多くは、何が感心に値するのかを説明できません:無理やり説明させると「だって、リンゴとミカンは別のものだからね」となってしまいます。しかし、リンゴだって、一つ一つは別のものです。だから、リンゴを2個と言うのが許されるのに、あわせて5個と言うのが許されないのは、何故なんでしょう。
数学的にはどうかと言うと、

  • あわせて5個と言った場合には、それぞれを全て別のものと考えた上で、その個々のものに左右されない、「個」という概念を一つに一つずつ対応させたわけです。それがいくつあるか、という意味で、5個と言ったわけですね。
    • もし、「あわせて何種類?」と言われたら、リンゴやミカンという「類別」の個数を数えて「2種類」と言えるわけです。
  • リンゴとミカンの個数を別々に言う場合は、これはリンゴ次元とミカン次元がある、2次元のベクトルと考えた場合で、仮にリンゴ2個を(2,0)個、ミカン3個を(0,3)個で表せば、あわせて(2,3)個と言えます。

しかし、たいていの人は、数学は前者のやり方しか許さないと考えています。それは、数学の「数」が、彼らにとってはスカラー量以外には存在しないからで、ベクトルや行列や、写像や集合、図形や言語までも、数学では「数」と同じように扱われるモノ(より数学的には「数学的対象」と呼ばれるもの)である事に思いも寄らないのです。
…こうして見ると、数学とは、人間の学問というより、神の学問という気がしないでもありません。『人は何で生きるか』(トルストイ著)によれば、神は人の中に在るものだそうですが、数学を「発見」した人間の中には、確かに神がいるのかもしれません。
なお、トルストイの言う「神は人の中にある」というのは、慈悲というものは人の中に育まれているものであって、神が直接人の上に与えるわけではない、という意味だと、僕は解釈しています。ちなみに、奇跡とは何ですかと問われたイエスは「あなた方が山よ動けと思えば、山は動く。それが奇跡です。」と言ったそうですが、これを「思っただけで勝手に動く」という意味に解釈すると、なんだか怪しげな新興宗教と何ら変わらない(まぁ、その当時はキリスト教新興宗教だったと思うけど)わけで、もちろんそう言う意味ではない:山の土を、スプーン一杯ずつでもすくって別の場所に移せば、きわめて長い時間はかかるだろうけど、いつかは、山が別の場所に移動するわけで(それを「山」と呼べるかどうかは別)、つまり何事も人がなしてなされるものならば、結局は奇跡と同じなんだよ、という意味だと、俺は解釈してます。
そして、実際に、人の手によって山一つがごっそり無くなった町や、逆に山ができてしまった町が、日本全国にも普通にあるわけで。