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なぜ論理パズルを間違えるのか

question:1223611338
ああ、こんな問題ありましたよね。カードが4枚ってところがミソですよね。確かめ得る全ての場合が、ここにはある。
まず、問題自体、「カードの一方に母音が書いてあれば…」という一文をどう捉えるかで変わってくる話だったりする。例えば、ここに「但し、カードの一方の側が子音の場合は、もう一方の側が偶数か奇数かは問わない」と付記されていれば、ほとんどの人は恐らく間違わないと思われる。
(コメレス)

具体的にどう変わると思うのでしょうか?
問題文が曖昧だから、正解は複数あるということでしょうか?

BLOG15 2008/10/13 10:36

少なくとも私の場合、問題自体が曖昧という感じはしません。それは、僕がたまたま数学出身であり、論理を理解する事に関して、ある程度訓練を受けている事も関係していると思いますが、多くの人は、抽象化された問題を、「別の」具体的対象に照らして理解しようとする傾向が見受けられます。
数学では、どんなに抽象化されたものでも、その対象領域の上では全て具象的対象として捉えます:例えば、物の数は、個々の対象が何であるかは捨てて、その個数という抽象概念のみに着目したものですが、それ自体が「かず」という具体的対象として扱われます。数学には、絶対的な抽象物・具象物という分類はなく、相対的な抽象化・具象化という過程のみがあるのです:数学では、その過程さえも、具体的対象として扱う事があるのです。
それはともかく、ある抽象的な文言を理解する過程で、文言の表す論理的対象、つまり命題(あるいは述語)をそのまま理解するには、ある程度の訓練(というか、気付き)が必要です。それが充分できていないとき、あるいは欠けているとき、その条件に反しないような適当な具体的対象に当て嵌めて理解してしまう事が、しばしばあるように、私には思えます。
例えば、「母音と偶数が、また、子音と奇数が、必ずセットで現れるようなカードの一式」という具体的対象は、今回の問題に反してはいません。このような想定を一旦行ってしまうと、これが一つの抽象的理解の基準となってしまうように思えます。実際には件の条件に反しない具体的対象はもっと沢山あり、しかもそれらは必ずしも今想定した具体的対象を特定するのに必要な条件を満たしていないにもかかわらず、この具体的対象が件の条件を代表していると勘違いしてしまうのです。
実際の教育の現場でも、抽象的な事柄を理解させるのに、しばしば、当該抽象的概念を代表するような具体的対象を示す事で代えている場合があります。それは本来、きわめて慎重に行われるべきものですが、そのような適切な指導者がいない場面では、それと同じ事を非常に限られたリソースの中で行わなければなりません。その場合、本来抽象的概念の一つの事例でしかない具体的対象を、その具体的対象がその抽象概念全体をカバーしていると見誤ってしまう事が少なくないように思います。
話を戻しますが、したがって、前述のように相補的な条件を補足する事で論理的に正しく理解できるようになったからと言って、もとの文言が曖昧だったというわけではないと思います。
(コメレス)

個人的な解釈では、
「A => B」を見て、「not B => not A」(対偶)も検討できるか?
が一つポイントなのかと解釈していたのですが、
「但し、カードの一方の側が子音の場合は、もう一方の側が偶数か奇数かは問わない」と付与しても、この情報への気づきの提供には至らないのではないかなと感じました。

t_shiono 2008/10/15 00:57

特に条件がついてないなら、4枚ともめくって確かめればいいわけなんですが、与えられた問題は「必要最低限のカード」を調べなさいと言っているわけですから、むしろ「調べる必要のあるカードがわかるか」というより、「調べる必要のないカードはどれかがわかるか」を問われているように、私には思えました。
したがって、「子音のカードは調べるのが無意味」という情報と、「偶数のカードには子音と母音の両方がありうる」という情報を与えれば充分ではないかと私には思われたわけです。
そうは言っても、確かに、それで「奇数のカードを調べる必要性」まで気付けるか、と言われると、そこまでは保証できないんですけどね。